認知(cognition)とは広い意味での「知的営み」、「知的な活動」を指す言葉である[1]。
「認知」の身近さ[]
認知科学はその言葉通り「認知」を解き明かそうとする科学の分野および哲学を総称した学問群である。
そこで研究対象である「認知」がどのようなものなのかを知ることで認知科学のイメージは掴めるだろう。では「認知」とは何か。多くの研究者がいるので、正式かつ統一的な見解があるわけではないが、敢えて一言で言い表すならば、「知的な活動」を幅広く指す言葉だと言える。[2]「知的な活動」という言葉から哲学者や科学者が数式を使って非常に緻密に計算する様子などが想像されるかもしれない。勿論、こうした「知的な活動」は「認知」である。しかしそれだけではない、「認知」は誰もが行っている非常に身近なものである。意外に聞こえるかもしれないが、では、次の例はどうだろう。
あるコンビニエンスストアの買い物[]
あなたはコンビニエンスストアにある飲み物を買いたいと思いやって来た。通い慣れた家から5分とかからないコンビニエンスストアだ。すぐに奥の飲料コーナー向かう。同じようなペットボトルが多く並ぶ中から欲しかったものを選ぶ。今週はなんと10円引き。「おっ珍しくついてる!」。そして、お財布の中身を思い出して小銭が必要だろうかななどと計算を始める。レジの前には既に3人並んでいた。しぶしぶと最後尾に並ぶ。並びながら来週の予定を考える。来週に締め切りが迫った課題をどうしようか。
そうこうするうちに自分の会計だ。前回来たときと同じ人が会計だった。店員さんに「袋に入れますか?」と言われ、すぐに「いいえ、大丈夫です」と答える。そういえば前回おつりをかなり多くもらってしまい、店を出た所で返したのを思い出す。そう言えば目の前の店員さんは若いからまだ入社して間もないのかな?などと考えてみる。そして、今回は慎重におつりの計算をする。会計も済んだのでコンビニエンスストアを後にする。「大丈夫って言っちゃったけど、大丈夫の使い方が間違ってるとか、この間、言われたなぁ、みんなそう使ってるのになぁ」などと考えて帰った。
ペットボトルだとか考えた内容などの細かい部分はともかくとして、上にあげた例は、おそらく多くの人にとって日常的な風景だろう。実はこの中には非常に多くの「認知」が、すなわち「知的な活動」が含まれている。例えば、区別する、考える、思い出す、会話をする、判断する、ルールを守る。こうしたごく普通の活動、もしくはそのいくつかが集まって成り立つ活動が「認知」と呼ばれる「知的な活動」なのである。おそらく殆どの人にとって、考えているなんて自覚もされない、ましてやこういったことが「知的な活動」であるなんて思われたこともないだろう。しかし、ペットボトルを区別するという実に些細な行動をするときでさえ、脳は非常に複雑な計算をしているのである[3]。
このように認知科学者たちがいう「知的な活動」というのは、あなたが考えているという自覚がある場合だけでなく、自覚がなくとも体(特に脳)が考えている場合も「知的な活動」だというのである。つまり「認知」という言葉は、いかにもという複雑な思考から、ごくごく日常的な「うっかり」まで、非常に幅の広い「知的な活動」を指すことになる。従って、少々乱暴ではあるが、認知科学者たちは、人間の活動全般について関心を持っているとすら言えるかもしれない。[4]。こうして考えていくと、あなたの日常がどれほどの「認知」に満ちているかも想像に難くないはずだ。だって、たった今もあなたはこの文章を読んでいる、「知的な活動」の真っ最中なのだから。
そして謎へ[]
このように「認知」はごく身近なものだ。だから誰にでも様々な問題が次々と浮かんでくるだろう。例えば、何かが「ある」ということは当然みえるからわかるわけだが、では、何故みえているものを「ある」と思えるのか。また、そもそも何故見えているのか。例えば、知的というけれど、どのようにして人は考えるようになったのだろうか。例えば、この体がなくなっても考えられるんだろうか。逆に心がない人はいるのだろうか。例えば、近所のあの猫に心や知性はあるんだろうか。
こうして浮かんでくる身近な疑問は、ときには子どものなぞなぞみたいなものであり、しかしときに底なし沼のような、思わず怖いと思ってしまうような難問にもなる。シンプルでどこにでもある食材が様々な料理に使われているように、きっと身近な問題だからこそ、その深さは計り知れないのだし、その切り口も多岐にわたろう。先ほどみたコンビニの例を振り返っても、自分ではなくておつかいに出かけた幼児であったなら、またきっと違う「知的な活動」となるだろう。では、機械にコンビニで買い物をさせるにはどういう条件が必要なのだろうか。謎が謎を呼ぶではないが、様々な想像が膨らむのではないだろうか。
こうした謎を解きたいという探究心こそが科学の様々な分野の人を今も突き動かしているのである。そして、こうした謎や想像を自分で膨らませていったとき、認知科学の初期から人工知能研究と心理学とが深く関わっていたこと、さらにフィールドワークや文化の研究を行う人類学者、言葉の研究を行う言語学者とが与したこと、そしてどのように認知が可能になるのか神経科学者たちも参画したこと、認知科学が哲学者たちの知的好奇心を刺激し続けていること、そして近年の進化論と分子生物学を筆頭とした生物学者たちをも巻き込んでいる、認知科学の魅力を感じっとってもらえるのではないだろうかと考える。
脚注[]
- ↑ 認知(cognition)の由来はラテン語の"cognare"(to know)という単語である(Balota, 2000)。また、「to know」は原義としては、何か出来事や体験を知識にしたり、理解出来ていたり、気付いていることを指す(New Oxford American Dictionary, 2005)。
- ↑ 参考までに広辞苑の定義する認知を紹介しておく。
にん‐ち【認知】
(1)事象について知ること、ないし知識をもつこと。広義には知覚を含めるが、狭義には感性に頼らずに推理・思考などに基づいて事象の高次の性質を知る過程。
(2)〔法〕嫡出でない子と父または母との間に法律上の親子関係を成立させること。普通は父が戸籍上の届出をして認知するが、子の訴えにより裁判所が判決で認知することもある。なお、母との間では出生の事実により当然に法律上の親子関係が成立する。」(広辞苑第六版より)。
このように認知という言葉には辞書的に言って二種類の用法がある。後者は「〜を社会的存在として認める」意味の<認知>は、知的活動という意味の「認知」とは余り関係がないとされている(道又, 2002)。無論、後者の<認知>も多くの人の「認知」に支えられて成立していることは言うまでもない。
- ↑ やや専門的で長い表現であるが、認知を適用という観点からまとめている表現としてMinderovic(2004)を紹介しておこう。
意訳ただし()内は訳者の補足:認知とは理性の複雑な(情報処理の)プロセス(全体)である。このプロセスを通じて個人は知識を得て世界を理解している。この認知はお行儀よく一つ一つのパーツに小分けしたプロセスを単に組み立てて出来上がるようなものではない。むしろ心理学者たちが説明するように、認知は知覚や注意、記憶、想像、言語機能、判断、問題解決、意思決定といった主な心理メカニズムと、身体の健康状態、知的素養、社会的なステータス、文化的背景といった様々な要因とが複雑に絡み合って成立しているものである。そして、この世界と個人とが絶え間なく変わり続ける中で成立している認知は、個人がこの世界で地に足を付けて生きていくための非常に重要な機能でありダイナミックなものである。
原文:Cognition is a complex mental process whereby an individual gains knowledge and understanding of the world. While cognition cannot be neatly dissected into constitutive processes, psychologists point out that it reveals the interplay of such critical psychological mechanisms as perception, attention, memory, imagery, verbal function, judgment, problem-solving, decision-making,with the admixture of other factors, including physical health, educational background, socio-economic status, and cultural identity. A dynamic process, since both the world and the individual are subject to change, cognition is a vital function which enables an individual to exist in the world as an independent and active participant.
科学の文脈においてダイナミック(dynamic)という言葉は、「派手」とか「よく動く」という日常的な言葉とは異なり少々特殊な意味合いを持つ。すなわち、単なるフローチャートや定式化された、決まりきった流れや法則に従うものではない、また、色々なものと様々に影響し合って成立しているといような意味合いで使われることが多い。勿論、厳密な実験環境から得たデータに基づき、精緻なフローチャート図を描こうとする方法は経験科学にとって非常に有効な手だてである。しかしながら、変わり続ける環境の中で成長し続ける私たちが日常的に行っている認知という「生き生きとした営み」、その本質を理解するためには認知が本来的にはダイナミックなものであるということを忘れてはならないのだろう。
- ↑ 参考までに先だって、ややもすると混同し易い感覚(sensation)、知覚(perception)、認知、認識(いずれもcognition)について簡単に区別を図っておく。とりわけ感覚/知覚/認知心理学などの実験心理学ではテーマに深く関わるため、伝統的にこれらの使い分けに敏感である。上記の分野は二つの基準から四語を使い分ける。その(1)基準とは意識などの介入の是非と(2)思考過程の複雑さとである。
まず「意識」の介入、「思考過程」、「言語化」等を必要とするか否かという基準から、必要としないのが感覚である(例:みえている-seeing、聞こえている- hearing)。一方、必要とするものを知覚とする(例:観る-watching、聴く-listening)。
もう一つの基準は、思考などが必要である場合のその複雑さである。もし意識を必要であっても、瞬間の判断もあれば長考を挟むものもある。知識を創造的に使ったり、複数の知覚を用いて複雑な思考を要するものを知覚ではなく認知と呼ぶ。また、この認知(cognition)という言葉は、哲学や人類学、人工知能研究の一部の文脈においては認識と訳されることもあるが、認識という訳語は現在の実験心理学においては殆ど用いられていない。
以上の区分は実験心理学におけるものであり、人類学や生物学などの分野で必ずしも同じような区分ではない場合があることには留意されたい。特に知覚と認知(または認識)の使い分けは各著者の恣意によるところが大きい。
参考文献[]
- Balota, D.A.(2000)cognition, Kazdin, A.E.(ed.)Oxford Encyclopedia of Psychology, Oxford University Press
- 道又爾(2003)第1章 認知心理学 誕生と変貌, 道又爾ほか 認知心理学 知のアーキテクチャを探る, 有斐閣
- 広辞苑第六版(2008), 岩波書店
- New Oxford American Dictionary(2005), Oxford University Press
ブックガイド[]
- Hofstadter, D. and Dennett, D.C. ed.(1981)The Mind's I, Basic Books(坂本百大監訳(1992)マインズ・アイ新装版 コンピュータ時代の「心」と「私」, TBSブリタニカ)
認知科学における様々な議論の前提となる「心と知能の不思議」をテーマとしたアンソロジー。例えば、ハーディングの第二章「頭がない私」ではある日、自分が自分の頭を見た事がないのに気付く。自分に見えるものは「ある」が、自分に見えないものはないのだから、自分の頭はないのだというエッセイである。ある意味では笑いを誘うが、よくよく考えるとそこには哲学的な謎が広がっている。こうした日常の様々な心に関する素朴な疑問や空想、推察がとりあげられており、非常に興味深い好著である。
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